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はちどりわ〜るど

それでも自分の人生に満足してるその辺によくいる外資系会社員 20代にてガン宣告。手術・抗がん剤を経て「若年性がんサバイバー」1年生。/ 「毒親サバイバー」/「性暴力サバイバー」/準ミニマリスト/日々色々勉強中 ブログで自分の幸せ&社会の幸せを考えながら生きるヒントを綴ります

死にたい・死んだほうがまし と考えたことがある、元がん患者が死生観・安楽死について話したいの。①

こんにちわ〜。ハチドリちゃんです。本日はトピックとしてはかなり重たいですが、「死生観」についてしっかり考えていきたいと思っています。

死にたい・死んだ方がましと思う人達は沢山いる

とても、生きづらい世の中ですね。私は、がんと宣告される前、何度も「死にたい」「死んだほうがまし」と思ったことがあります。

自分にとって大切な人と長い距離を感じた時。

人から大きな裏切りを受けた時。

ちっとも、努力が報われない時。

過去のトラウマが自分を食べつくしてしまう感覚に陥った時。

がん宣告後も、そう思う時が多くありました。

狂ってしまうくらい身体が痛い時。

動けなくて天井だけを見つめている時。

人に沢山の迷惑をかけている自分が、嫌になった時。

因果応報という言葉に、苦しめられた時。

 

今は、幸いなことにそんな気持ちではありません。

しかし、この世の中に多くの人が「死にたい」「死んだほうがまし」と思っています。

そして実際自殺をしていまう人達、

飛び込み事故で電車が止まり「またかよ!人に迷惑かけるな!」と怒る人達、

ネット上で誹謗中傷をする人達、

そんな世の中を見て心が痛みます。

がん宣告を受けたからといって「命の大切さ」を説教するつもりはありません。

個人の”苦しさの度合い”は、他人の苦しさと比べて決まるものではなく、

自分の過去の経験を踏まえて決まるものです。

 

死が怖い理由

自分の最期を考えると、とても不思議な気持ちになります。

まず、自分という存在がこの世から無くなってしまうのが怖いのです。

あと100年も経てば、私を覚えている人はもう誰もいません。

私が大切にしてきた物は、どこへ行くのだろう。無残に捨てられて燃やされるだろう。

そうやって、私が愛する物達の行方を考えると、とても悲しいです。

私は病気で子どもを産めないから、私の”肉体の一部”をこの世に”残す”こともできない。

そして、私という存在がいなくなっても、世界は平常運転で周り続ける。

「自分は特別でもなんでもない」という悔しさに思い知らされます。

 

しかし、この長い長い歴史を考えると、私たち個人はそもそも特別な存在ではありません。

過去に偉業を成し遂げた人にも、お金持ちにも必ず死は訪れます。

だけれど、どこか自分は違う。そう思いたい自分を見つけるのです。

そして、「死の過程」がとても怖いです。

死ぬという行為は一瞬。しかし、そこまでに行き着く直前までの過程が恐ろしいです。

身体も動かせないような、想像を絶する痛みで苦しむのではないか。

外科手術3回と抗がん剤治療を経験した私は、あれ以上の痛みは想像できないからこそ、考えるだけで、私の目は大きく開き、背中に嫌な感覚を覚えます。

この恐怖を乗り越えることは、私は無いと思います。

正直なところ、「死ぬのは怖くない」と話す人は、どこか不健全な感じがするのです。それは、「がんになって幸せです!」と言い張る人々のように、

強い承認欲求や、触れると崩れてしまうような、脆さを感じるからです。

 

命は大切。後悔しないように今を大切に生きようとか、色々聞かされてうんざりして。

バチが当たる。天罰だという言葉に苦しんで。

自分自身が、”明日は我が身”という戒めの道具と化したことに、悲しくなって。

 

生きたくないと思わせているのは、なにが原因なのだろう? 

身体の痛み? 心の痛み?

社会が作り上げた”幸せの幻想”と現実のギャップによる苦しみ?

あなたが、経験したことがあるように、私も経験してきたのです。

 

生き延びた私・今日死んでいく人に対する ”理由”なんてない

「私はがんに勝った!私は勝者!」なんてことは、私は言うつもりはないです。

私が、がんサバイバーである点は変わらないです。

そして、私の戦う姿勢と強い意思は、私自身も誇りに思います。

だけれども、「私は運がよかった」と言うことも傲慢で残酷な態度だと感じています。

では、本日亡くなった人は、負けたの?運が悪いの?

この世の中には、何人も病気で亡くなっている人がいます。

その中で「私は、勝者です。」なんて顔をすることは、傲慢な態度であると思います。

元気であること・健康であることは、”褒められたこと”であって、 

太ったり、風邪をよくひいたりすると、自己管理がなっていない自堕落な人とレッテルを貼られてしまう。

痛みに歯を食いしばる人。自宅で天井を見つめている人。見つめることも出来ない人。

そんな人達を見て、惨めだなぁ。こうはなりたくないなぁ。と、思うのは自由なのですが、どうしても、見下してしまいがちなのです。

私は、闘病を乗り越えたからといって、乗り越えれなかった人より優れているわけではない。

”健康の維持”・・そこに間違いなく努力は発生しているけれど

人間は機械のように、ここを◯◯したからこうなったといった、単純なものではなくもっと複合的であり、説明できないものです。 

なにか私が生かされてる理由がある気がする。 

そう自身を特別に扱うことは、時には必要な事かもしれません。 

そして、私達はなにか理由が無ければ、落ち着かない気持ちになります。

しかし、 実は理由なんてはないのです。

 

”綺麗な死”が待ち受けていると期待する私達

「最期は美しく人生の幕を閉じたいと思う。」

「他人に迷惑をかけない。立つ鳥後を濁さず。」

こんな表面的で格好いい言葉を使って、自分の” 理想の死に方という幻想”を

知ったような顔で語る人々がいます。

そもそも、”耐え難い苦痛”を、計測することはできず、個人によって多種多様です。

多くの人がその”耐え難い苦痛”を感じ、その家族が”この世の地獄”を経験して、 

"人生の幕を美しく閉じる"とは、かけ離れた、「人間の現実」を経験しています。

誰でも自分の死は、”そうではない”ことをどこか期待してしまう。

今の日本の医療には限界があり、 想像を絶する酷い痛みを取り除けることができないことの方が多いにも関わらず。

 

自死から目をそらさず、「最期の一呼吸まで、懸命に生きることを含めて生」とストイックになる必要なんてないと思う

結論から話すと、私は安楽死に賛成しています。

なぜなら、単純に最期までストイックになる必要はないと思っているからです。

まず、”尊厳死”と”安楽死”に大きな違いがあるのが現状としてあります。

そして、日本人の多くが”安楽死”に対して大きく誤解しており、

安楽死が認められている国にて、どのような審査の過程(条件)があるかが知らない人達ばかりが、安楽死について気軽にコメントをしています。

また、安楽死は「自殺だ!」と怒ったように言う人がいます。

自殺はとても悲しいことです。

そして、安楽死は確かに自殺です。

生きのびる・死ぬということを、勝ち負けに例えるのは嫌いですが、あえて使うと

人間誰しも最期は”負ける”のです。

想像を絶する痛みを経験して、それでも最期は”負ける”という、結論を変える事ができないことが分かっている場合、

その来るであろう痛みに怯え、抗うことを辞めて自殺=死期を早めることがそんなに、情けない・愚か・臆病なことだとは思えません。

批判を覚悟で書きますが、苦しむ人達の前で「ご先祖様に失礼」は、非論理的思考による発言です。

 

あなたの命・生きることへの価値を決められるのは、あなた自身だけ

苦しんで最期の一呼吸まで生きた人も、

”安楽死”という方法でこの世から去ることを選んだ人も、

懸命に努力をされたと思います。

そこに優劣はありません。

その苦しみは、その人とその家族だけにしか分からないものであり、けして外野が口出しできるものではないと思うのです。

そして私達の命の価値・私達が生きることの意味は、他の誰でもない私達自身が決めることです。

また、お金というものは本当に厄介なもので、収入=その”人間の命の価値”として扱い、今まで私達は多くの過ちを犯してきました。

そのため、綺麗事では済まされない現実が私達の目の前にあります。

”あんな状態”なのに生きている。”社会のお荷物” ”税金の無駄使い”

そんな心のない言葉・余裕のない言葉を人々に言わせてしまう、”社会”は、皆が感じているように、ますます悪い方向に進む可能性が高いです。

 だけれど、あなたの価値はあなたが決めるの。

そして、安楽死さえも、”幻想”かもしれない。

そう。私にとって、”死”はとても恐ろしい。

そんな私の気持ちを、私の大好きなアーティストMoby(モビー)の”The Day"(最期の日)という曲と、美しい映像が恐怖から救ってくれました。

私はいつここから離れるだろう

彼女はベッドルームに座って悲しんでいる

何度も唱える祈りがそこにある

彼女はもう痛みで起き上がることはできない

これらの薬の”組み合わせ”が

彼女を絶望させ迷子にしてしまった

彼女は”これからの道”がいくつあるか数えたい

しかし彼女はもう数えることは、もう出来ない

 

私はここにいるだろう

すべての痛みが、消えるまで

私はいつもここにいるよ

このすべての光が、ちょうど”その日”を殺すまで

 

私は、私の言葉を押し殺してしまった。

私は千回試みたことがあった

希望の光がとても輝いているとき

神のように虐殺された。

私は私の人生を毒で犯そうとしていた

いつもナイフの先端の夢見て

彼女はいつも後ろを見ていた

そして、私は10分もここに座って待っているから

 

私はここにいるだろう

すべての痛みが、消えるまで

私はいつもここにいるよ

このすべての光が、ちょうど”その日”を殺すまで

  

だから、頑張って。

頑張って。

もう一回試してみて。                     

※意訳:ハチドリ

最後に、私が大好きな、四つ這いおとなさんのブログを紹介します。

彼は、「脳性麻痺」という先天性の障碍を抱えてるため直立歩行はできず、車椅子と”四つ這い”で移動しながら、日本のどこかでひっそりと暮らす、20代男性ライターです。

確かな力強い言葉と、優しい言葉で埋め尽くされており、毛布のような温かみのあるブログです。

この記事は、四つ這いおとなさんの以下の2つの記事に対する私の答えでもあります。

プライベートメッセージで、安楽死について話した時に”、四つ這いおとなさんから、「死の甘美さ」よりも、「生の可能性」に懸けたい。 ”という力強い言葉をもらいました。

死の恐ろしさ・死にたくないという恐怖と気持ち、
一方で、現実の苦しさから解放を可能とする、甘美で威厳のある”死”の間に葛藤して
”地獄の底を舐めるような努力”を他人に隠しながら、社会の厳しさに心を痛めて、
それでも人の暖かさに触れ、自分が社会に対して微力でも影響を与え、生きていくということが
本当の”幸せ”、そして”生の可能性”だと、私は思います。

”パート2”続編→死にたい・死んだほうがまし と考えたことがある、元がん患者が死生観・安楽死について話したいの。②